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zoom RSS 湖畔吟を読んで「船を掘りに」−−その1

<<   作成日時 : 2008/01/03 21:07   >>

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更新しようとして編集中のまま長い事寝かせていました湖畔吟を思い出して引っ張り出しました。 
さて久々の湖畔吟は「船を掘りに」です。比較的短い随筆の多い湖畔吟ですが、これは結構長いです。手賀沼や我孫子の村人のことなど色々と紹介しているからです。楚人冠先生の手賀沼への愛着や村人への親近感がほのぼのと伝わってきます。しかしここではところどころ省略させて頂きます。


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 ◇ 「旦那、船を掘りに行ってみませんか」と村の勘兵衛さんから誘われた。 物もあらうに、船を掘りに行かうとは、変なことをいふにも程があると私は思った。
 ◇ しかし勘兵衛さんは面白い人である。彼はこの手賀沼界隈から始終発掘される古土器のイミテーションを作るのに妙を得て、それで専売特許を取っている。この辺で埴輪のかけらでも拾ったら、子供でも勘兵衛さんのところへ持って行けという位である。  −−中略ーー
◇昨年九月の大地震には激しく沼の底をかきまはされたから、この藻がことごとく根を切られて、たちまち水面へ山のやうに浮かび上がったといふ。この時藻と共に、やはり水底深く沈んでいたのを、地震のために底の泥から洗い出されたものがある。洗い出されたままで、依然として沈んでいた。それが何ものとも知れなかった。場所は岡発戸の沖合である。昔からここに何とも知れぬものが底に沈んでいて、よく漁師の網がこれに引っかかって破けたが、不思議にここから鯉がおびただしく捕れるので、漁師は破るるのもかまはず網を入れていた。それが地震で泥の中から出て来たのである。おほかた大木の沈んだのだらうといふことであった。

◇そこへ今年もひでりで、沼は大渇水と来た。水は三尺近くも下って、底の怪物はどうやら引き上げられさうになった。「あげべえ」「よかんべえ」の相談一決して、村の若者が総がかりで引き上げて見たら、長さ三間に余る細長い獨木(うつろ)船であった。永く水底に埋っていたので、全体が殆どことごとく炭化していた。これを取りあへず岡発戸の精米所の庭に引き上げておいたら、近郷から続々見物に来る者があって、物珍らしさに、いづれも記念の為にと船材の端をかいて持って行く。二日もたたぬ内に、半分も毀されてしまったとの評判もあった。

◇その間に又船が上った。岡発戸で船が泥の中から掘り出されたのを聞いて、負けぬ気になって、沼向ふの岩井という処で一隻、鷲の谷で又一隻掘り出された。まだ探せばいくらもあるらしいとの噂があった。

◇勘兵衛さんが船堀りに私を誘ったのは、丁度この頃であった。何でも高野山の下にも一艘あることが知れている。これは三尺ばかりの小形のものだから、四人もかかれば掘り出せる。そっくり引き上げたら、面白い庭の置物になります。どうせ持ち主のない小船なんですから、だれが掘りに行ってもkまやしませんと、勘兵衛さんは一向構はなさゝうな顔をして、頻りに説いた。

◇待ちに待った西村先生は一向に来ず、そのうち高野山の青年団が総勢二十六人がかりで、たうとう勘兵衛さんのんねらっていた奴を掘り上げてしまった。掘り上げて見たら、どうして、長さは四間半、幅は広いところで三尺もあらうといふ、馬鹿に大きなものであった。

◇そのうち今度は滝前といふ処で、又一隻掘り出された。七月二十三日に初めて岡初戸のを掘り出してから、二十日ほどの間に出たのである。滝前のが出たその翌日、西村先生にたにたと笑ひながらやって来た。

◇◇ われから進んで案内役を承っておきながら、自分にも道の様子はしかと分からなかった。兎も角も西村先生の車を先頭に、私は自転車で後につづいて、車夫に聞き聞き、一番早く船の上がった岡発戸の方に向った。  (以下次回)
                        (大正13年8月)

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以上は船を掘るの途中までである。結果として楚人冠先生は船掘り作業に係ることはなかった。あちこちで掘られた船を見て周るのである。そのところは次回としてこの回では船掘りに出かけられた当時の情景を想い描いてみたい。
まず、先生は自転車に乗って車の後を追ったとある。当時は現在の手賀沼沿いの自動車道はなかった。高台の崖下沿いの道「ハケの道」が唯一の道路であったと思う。そこから沼側は畑や田んぼで人家は無かった。志賀直哉先生が住まわれた家の前を通って現在「水の館」がある方へと行ったに違いない。その頃手賀沼大橋も無ければ、県道船取線も無かった。
似通った古い写真を探したらまず楚人冠先生が自転車に乗っている姿が見つかった。当時自転車ですら乗る人は珍しかったようである。
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手賀沼は今以上に葦に囲まれ、漁業が盛んであった。
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雁明を過ぎ子の神大黒天より見下ろす手賀沼は広々としていた。
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今の船取線に差し掛かったところには例の一本松(今は枯れて幹だけが残っている)があったに違いない。
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左手はゆったりとした丘陵で松の木が林をなしている。この写真は昭和28年当時のもので右上の林の辺りに後に我孫子市役所が出来た。
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こうした一連の画像と楚人冠先生の文章から当時の我孫子や手賀沼の光景をそれぞれに想い描いていただければ幸いです。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
更新を待ってました。一読、面白いです!!
続き物にしてチョビチョビ紹介してくださっているので楽しいです。写真もいいですねえ。楚人冠さんは市井のひとたちとよくかかわっていらしたのですね〜。当時の暮らしがのぞけて本当に愉快です。
くろまめ
2008/01/04 15:40

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